「太平洋の森から」第24号(2005年12月発行)

1  砒素汚染の除去を要求してマタネコ集落住民がステティンベイ・ランバー社(SBLC)を裁判に訴えることを決意  清水靖子

 2005年8月末に私がマタネコ集落に行ったとき、住民はステティンベイ・ランバー社(SBLC)を訴える裁判を決意していました。
「私たちは裸でね。子どもひきつれて、棒持って、SBLCにデモをしたのよ。去年3度もやったのよ。でもSBLCは答えてくれなかった。」「汚染除去をなんでしないのか。子どもたちと、その子どもたちのために、汚染除去しろって言って啖呵を切った。」孫やひ孫にかこまれた60才位の女性(女性代表のひとり)が怒りで震えた声で話す。
「私はここに生まれ、ここに育ったの。SBLCが来るまでは、ここは泉も川も本当に素晴らしいところだったのよ。今は化学物質で汚染された泉しかない。その泉の水を飲み、身体を洗うしかない。皆病気になったのよ。死んだ人も多いのです。私たちの身体はいつも痒い。この土地も汚染されているのよ。子どもたちのためにこのままでは許せない。」30代であろうか、彼女は話の途中で涙ぐんでしまった(彼女も女性代表のひとりである)。多分ちょうど彼女が幼児のころに大きな変化が起こったにちがいない。
「私は青年だった22歳のころから17年間(1976年から1993年まで)、日商岩井のステティンベイ・ランバー社(SBLC)の製材所と防虫処理場で働いていた。至るところにCCA(砒素・クロム・銅入りの防虫処理剤)のドラム缶の蓋が開いたまま散らばっていた。防虫処理場からは、処理後のCCA液が垂れ流され、大地に放置された木材からもCCA液が垂れていた。ベルト・コンベアーのようなグリーン・チェーンというのがあって、それに使って木材を巨大なCCAの液槽につけ、またグリーン・チェーンが引き上げていた。加圧釜やDip Diffusionと防虫処理もあった。危険性を知らされていない労働者は素手と素足で作業した。私も喉が腫れる病気になった。これまでマタネコ集落が全員で要求しつづけてきたのは汚染除去です。」とマタネコ集落のスポークスマンの男性フィリップ・カウトゥさんは的確に当時の様子を描いてみせた。「それにSBLCが水補給をしていないから、私たちは泉で身体を洗い、泉の水を飲むしかない。泉で身体を洗った翌日は痒くて痒くてしょうがない。」
彼はつづける。「その上、マレーシアのCS Bos International(現在のSBLCの持ち主)は、私たちを金で買収しようとしたのですよ。汚染除去を要求しに行ったら、“good will fund をあげよう。受け取りなさい。月に1500キナづつ毎月あげるから”と言うのです。私たちは“それは賄賂です。そうやって私たちの口を黙らせようとしたって、私たちはそんな金は絶対受け取りません”と皆できっぱり拒絶したんですよ!!」
「私たちはSBLCも、政府の環境保全省も信用していません。あなたたちと弁護士だけが頼りです。どうぞこの私たちの訴えを弁護士ともども助けてください。」と人々は私に願った。
20058月末、マタネコ集落の住民は、砒素汚染除去を要求してSBLCを法廷に訴える嘆願書をパプアニューギニアの弁護士宛に書いた。部族代表10人と女性代表3人の署名入りだった。
過去の環境保全省のこの問題への行政指導はいかにも怠慢であった。環境保全省は20035月付けで汚染除去命令の文書を作成していた。しかし、実際、環境保全省がSBLCに汚染除去命令を行ったのは20046月だった。日商岩井が現地を去る200312月以前に汚染除去命令を出していれば、汚染責任を負う日商岩井自身が汚染除去をせざるを得ない窮地に陥っていたのだ。日商岩井と「森を守る会」との交渉はそこまで煮詰まっていた。環境保全省と日商岩井との間に何らかの取引があったのだろうか。住民も環境保全省がSBLCとつるんでいることを見とおしている。
かつて マタネコ集落は水源郷だった。“マタネコ”という意味は、“伏流水の湧き出る口、水源郷”という意味で、村には美しい川と泉が溢れていた。
“私たちは森と川と海の幸に満たされ、狩とカヌーと漁を楽しみ、美味しい泉の水を飲んでいた。”と長老たちは昔を懐かしむ。
しかし1970年から操業を開始した日商岩井の子会社SBLCによる破壊が始まった。奥地の森の伐採と、丸太積み出しのための集落の東側の埋めたてで水系が絶たれ、泉が枯れた。1976年以来の製材所からの防虫処理液の垂れ流しが、マタネコ集落に深刻な砒素公害をもたらした。
今から14年前の1991年、私がはじめてマタネコ集落を訪れたときには、すでに黄色をした廃液が、工場の外や集落各地を染めていた。水汲み道具を頭に載せた女たちが村からずっと歩まで歩いて行った。すでに飲み水に苦労していたのだ。念のため、それらの写真を撮っておいたのだが、それが後に重要な証拠写真となるとは、当時知るよしもなかった。
その後「森を守る会」の調査の積み重ねで汚染の内容が明るみに出された。さらには私の書いた記事が発端で、朝日新聞と現地の新聞が砒素公害を明らかにするに及んで、環境保全省がSBLCの防虫処理場の停止を命じ、2001年6月にSBLCはやっと防虫処理場の操業を停止した。「森を守る会」は住民と共に汚染除去交渉をつづけたが、垂れ流しの責任であるSBLCの日商岩井は汚染除去をしないまま2003年末に現地を去った。砒素汚染を理由にSBLCを日商岩井から安く買い叩いたマレーシア企業のCS Bos Internationalは、日商岩井の負の遺産である砒素の汚染除去をすべきと知りつつも、汚染除去をしないまま今に至っている。CS Bos Internationalは、現地を訪問した私との面会も拒否した。
マタネコ集落との長い付き合いで感じつづけたことは、貧しく汚染に苦しむ悲惨な状況の中にあっても、皆が明るく、心優しく、助け合って、生き生きと暮らしているということである。
森がないので畑は遠く実りも豊かではない。そのうえ雨季で遠い畑に行けない日は、何も食べずにお腹が空いても皆が我慢している。雨が降ると20センチ地下の帯水層から砒素・クロムがあがってくる。水がなくて遠いところまで汲みにいかなければならなくても、耐え忍んでいる。あるいは砒素とクロムの涌き出る泉で飲まざるをえなくても耐えながら飲んでいる。子どもたちも我慢している。手と足が皮膚病だらけでも耐えて生きている。私だったらどんなに文句たらたらだろうかと反省してしまう。
手足の痒いお祖父さんの皮膚をそっとさすったり、そばに付き添っていた幼い孫の姿も忘れることはできない。このお祖父さんは昨年苦しみながら死んだ。
老人たちは寡黙であるけれど、その話しは魅力的である。とくに昔のマタネコ集落や、狩や漁の話しをするときは、その顔は失われたものをなつかしむように夢見ごこちになる。
母親たちは乳飲み子を抱えて、遠い畑での収穫、帰ってからの洗濯、炊事、子どもたちの世話。遠いところまでの水汲みはもっともつらいがやりとげる。
集会でも集落の将来を考えてしっかりした発言するのは女性たちである。
男たちは、あちこちでの労働力で日銭を稼いでいる。
若い青年たちは実に心優しい。日商岩井の日本人たちは、マタネコ集落の青年を怖がって集落に近寄らないが、私は一度もいやな思いをしたことがない。青年たちは、砒素問題の専門家たちの土壌・地下水の採取を炎天下で黙々と手伝いつづけてくれた。長期にわたった土掘り調査でも彼等は率先して仕事をした。その瞳が澄んでいる。調査の後は一緒に木陰に座って将来の希望を聞いた。調査をつづけた島村さんにあこがれて将来科学者になりたいと言った少年、手足に潰瘍ができていて苦しいにちがいないのに「何のことはない!」という顔で手伝いつづけた多くの少年たち。
私のカメラ道具をそっと持ってくれたり、木登りしてマンゴーを取ってくれた少女(貧しく破れた衣服しかなかった少女)がいる。彼女の家は今も貧しいままだが、美しい微笑みの大人になろうとしていた。長いかかわりのなかの、さまざまな思い出が交差する。
私たち「森を守る会」にとって、熱帯林の商業伐採を止めようという「森を守る」活動の過程で出会った問題が、このマタネコ集落の砒素汚染だった。本来の「森を守る」活動と並行して私たちは、汚染の綿密な調査と日商岩井・SBLCとの交渉をねばり強く行ってきた。砒素汚染の調査と交渉については、日本のアジア砒素ネットワークの砒素汚染調査の専門家たちの協力や現地の弁護士とNGOとの長年の連携が重要な役割を果たした。現地調査の結果からは、深刻な砒素汚染の実態が浮かび上がっている。私たち「森を守る会」は、マタネコ集落住民の願いを受け止め、彼らが始める訴訟を全面的に支援していきたいと考えている。マタネコ集落の泉から砒素が湧き出さない日を目指して、住民は裁判という最後の選択をした。
振り返れば、すでに2002年5月22日に、マタネコ集落住民代表たちは、私たち「森を守る会」宛に、「砒素汚染除去のためのSBLCとの交渉権を「森を守る会」にも与える」という要望書をしたため、「マタネコ集落のマタナブブル泉を、パプアニューギニアの基準にかなう砒素値(注:0.007ppm)にまで下がるようになることが、汚染除去の到達地点である」と書いてあった。
「森を守る会」の今までの尽力に加え、裁判支援はその住民との連帯の延長線にあるといえるだろう。
「森を守る会」とSBLC(日商岩井とCS Bos International)との交渉や現地環境保全省とのやりとり、また「森を守る会」、環境保全省、SBLC側、それぞれが独自に調査した「汚染調査報告書」もある。時の流れを追っての克明な防虫処理場の現場、現場の労働者の証言、汚染状況と村人の証言を収めた証拠写真とビデオもあり、これらすべては、今後のマタネコ集落の住民が担っていく裁判の重要な証拠となるだろう。
マタネコ集落から裁判の依頼を受けた現地の弁護士は今、綿密な準備をしている。前回、皆様にもご支援を頂いたマイシン民族の裁判(原生林を守るために企業と国家を相手に戦い勝った)の弁護士グループのネットワークである。詳細は次の号に紹介できると思う。


2 パプアニューギニアの森を守る  ブライアン・ブラントンさん講演会
   
 2005年7月8日(金)、上智大学図書館にて、上智大学アジア文化研究所と「森を守る会」の共催で、パプアニューギニアの森を守る法律家、ブライアン・ブラントンさんの講演会がありました。
ブライアンさんは、コリンウッドベイにあるウイアク村の裁判闘争について、その背景や経緯をお話になりました。「パプアニューギニアは石油や天然ガス、金や銅、マグロやコーヒー、ココアやオイルパームなど、多くの資源・輸出品に恵まれているものの、そこから入るはずのお金が民衆に行き渡らず、政府はお金がないから義務教育も有料で多くの家族は学校に子どもを行かせるお金がなく、病院にも医薬品が足りない状況となっています。石油や金が高値で輸出されているのに、なぜ、民衆にはお金が行き渡らないのでしょうか。それは、政府の腐敗によるものであり、不法な伐採が腐敗を促進しているのです。また、パプアニューギニアの97%の土地は慣習的土地所有制度に基づき地元のコミュニティが所有していますが、土地の所有権を明確にする土地登記制度の導入は企業にとって悪用されるという面もあります。
 コリンウッドベイの状況は、アジアやロシア、アフリカで行われている状況ととても似ています。インドネシアのように、土地所有者が立ち上がると殺されるということはありませんが、パプアニューギニアでも同様の状況になりつつあると言えます。コリンウッドベイの人たちは、知的でリーダーシップがあり、リーダーたちは教養もあり、1993年、都市に住んでいる地権者とフィリピン企業によるココナッツジュースプロジェクトという伐採計画が持ち込まれたとき、リーダーたちはこのプロジェクトを拒絶しました。村人の原生林は多様な生態系に恵まれ、市場価値も高いのですが、伐採企業は1?=10キナ(350円)しか払わないのです。森林と政府・企業の関係は、まるで肉のかたまりを前にして犬が周りにいるようなものであって、何度犬(政府・企業)を追っ払っても犬は肉(森林)に近寄ってくるのです。
 1995年には、ワニゲラの都市生活者がマレーシア系中国人のリー氏(グリーンマウンテン社)という人と組んで、ケロロという会社を作り、秘密裏に土地を収奪しようとしました。伐採企業は、「もし、あなたがたが契約すれば、立派な家がたって車にも乗れますよ、まるで白人のような生活ができますよ・・」という話をもちかけ、都市生活をする土地所有者との契約で住民の土地を奪うケースも多いのです。彼らが持ち込むオイルパームプロジェクトは、すべての木を伐採し、木材を輸出し、逃げてしまう。そして生物多様性の失われてしまうのです。このとき、ケロロ社とリー氏は違法な方法により、二区画38000ヘクタールを所有することとなったのです。土地登記制度により、登記書に最初に署名した人が土地所有者となってしまうのです。政府や伐採企業は土地登記書にある人が所有者であると主張し、NGOはそれは違法な手段で作られた文書で無効だと主張する。私たちはこれらの文書が無効であることを主張するために、法廷で3年半闘うこととなりました。リーさんのようなブローカーは、政治的なコネクションをもっていて、二人の首相ともつながっているのです。95年、リー氏は別な違法伐採に関わり、忙しくてケロロ社にオイルパームプロジェクトを持ち込むことが出来なくなった。ワニゲラの土地所有者は怒って、リー氏を首にしました。しかし、土地所有の権利に関する書類はリー氏が持ったまま。新しく雇われたのは、違法伐採で億万長者となったビジネスマンでディゴールド社を所有するヒー氏であり、彼はまずケロロ社の代表としてリー氏を攻撃した。「土地の契約書を返さなければ刑務所にぶちこむ」と。ヒー氏は森林省の所に行き伐採権をもらい、コリンウッドベイの土地と森林に手を付けはじめました。法律では、地方の森林経営委員会の推薦が必要となっており、この委員会に土地所有者の代表も入っていて計画に反対したため、すぐ伐採が行われることはありませんでした。しかし、地元の政治家が「あなたがたが開発をさまたげるのか」「一生原始的な暮らしを続けるのか」と叫び、圧力をかけたので、委員会の住民代表は計画を了承してしまったのです。本当の土地所有者たち全員がこの計画について初めて知ったのは、1997年のことだったのです。
 そしてコリンウッドベイの本当の土地所有者たちは、私たち弁護士のところにやってきました。実際、38000ヘクタールの二区画の土地は12の別々な土地所有グループによって所有されていたのです。私たちは、NGOの協力を得て活動を開始しました。まず12のグループが本当にこの土地の所有者であることを証明することが必要でした。地元に住んでいる人はどの土地が誰の土地かは分かっていますが、実際にはインチキの登記簿しか残ってないのです。原告は証拠を提出しなければならないため、電話帳ほど厚い12グループの土地の証明書をもって裁判所へいきました。とりあえず、伐採中止の命令を出すように働きかけ、暫定的な措置が取られました。法廷での議論では、相手側の弁護士は企業の利益を守るばかりでした。ディゴールド社は敏腕な弁護士を採用していていて、この訴訟は私たちには重すぎるケースでした。相手は我々が資金的にも息切れすると思っていたはずです。しかし、コリンウッドベイの人々は日本を含め、海外からの援助を受けられました。多くの費用は証拠がために使われました。12のグループの代表者がポートモレスビーに行くにもお金がかかりました。1999年、ワニゲラの小グループは二区画について権利を持っていなかったのですが、実際、何千人もの土地所有者が現れ、裁判所もこのことを認めたることとなりました。2000年3月、妻が亡くなりました。私たちは7月、オーストラリア人の弁護人、ジェームズ・スライト氏を雇いました。外国の弁護士を雇うためには、最高裁判事の許可を得ることが必要で、この許可が18ヶ月かけてようやく決定されました。費用も高額ですが、スライト氏の弁護はすばらしく、私たちは勝訴することができました。それも、私たちの訴えすべてが認められたのです。これは、NGOにも大きな励みとなりました。この勝訴はその後も大きな影響をもたらしました。
 35万ヘクタールの原生林をもつムサ・ポンガエリアでも、勝訴を聞いて勇気づけられ、「私たちも出来る。我々も森林を守る」ということになりました。10年以上前からNGOも活動しているマナグラスプラトーでも、住民がこの勝訴を聞き、動き始めました。2004年、コリンウッドベイ周辺地域のすべての土地所有者が一堂に会し、エリアで合計120万ヘクタールの原生林すべてを守ることが決められました。」
 ブライアンさんと通訳のジェームズさんは、輪になった参加者の中央で身振り、手振りで、熱弁をふるいました。会報でもお伝えしたウイアク村の裁判の様子について、さらに詳細を知ることができ、あらためてブライアンさんのような法律家たちの活動が「パプアニューギニアの森を守る」ため不可欠だということを痛感しました。遠く離れた日本で活動する私たちにとっても、勇気づけられるお話でした。ありがとうございました。(今後も、ブライアンさんの活動を現地より報告していただき、最新情報をニューズレターで掲載する予定です。)

参加者の声から
「今回の講演会を聞き、森林伐採に対する問題意識を持つことができました。現代人は自然に対しての畏敬の念を忘れてしまっています。様々な技術の発達により人間自身が自分の力、知識、能力ばかりに目を向け、生命をもつものという存在であるという考えから離れてしまっています。私たちの生命が多くの尊い生命に支えられているということを思い出す必要があります。また、めまぐるしく変化し続ける時代のなかで、次の世代を担う若者たちに伝えていかなければならないと感じました。」
「問題の規模の大きさ、複雑さに驚きました。パプアニューギニアのNGOの方だけが頑張ればよいというのではなく、いかに使う木材の量を減らすかなど、日本からの技術OR発展も必要なのだと思いました。なかなか身に染みて感じられない問題を深く知ることができ有意義でした。」


3 2005年8月 ウイアク村を訪れて  松本 浩一
 私自身、10年ぶりにウイアク村を訪れた。8月13日(土)夜、成田を出発し、直行便で約6時間、ポートモレスビーに14日(日)早朝に到着、国内線への乗り継ぎもスムーズで、午前9時20分には乗り継ぎ地のワニゲラに到着。いつものようにウイアクからの出迎えを受け、海岸からボートに乗り、約40分ほどでウイアク村に着いた。
 今回の参加者は、4回目のウイアク訪問となる名古屋の池田さん、昨年大学での講演会がきっかけで初のエコツアー参加となる大東文化大学の3年生4名、総勢6名のメンバーだった。
 今年7月、以前からお世話になっていたMAICAD(ウイアク村を含むマイシン語族のNGO)のチェアマンだったシルベスタ・モイ氏が突然亡くなられたため、村は喪に服しており、静かな歓迎の昼食からエコツアーは始まった。
 すでにご案内したように、ウイアク村は2002年5月、マレーシアの伐採企業による不法な伐採権取得に対する裁判闘争に勝利し、原生林を守る村人の取り組みはその後も村周辺のコリンウッドベイ一帯まで広がっていた。しかし、裁判闘争での多額な出費やシルベスタ・モイ氏の死去等の事情があり、近年のMAICADの活動は停滞していたようだ。新しいチェアマン不在のまま、臨時の代表を務めるデビットソン氏、会計係のジョン・ウェスリー氏、タパの担当で今回エコツアーの取締役を務めるルーベン・セリ氏等との会合では、タパづくりもMAICADの資金が足りず、またタパの値段が下がってしまったため、順調に進んでいないこと、日本の支援で設置された電話も中継局の故障で費用がかさみ、運営が楽ではないこと、現金収入が減ってしまったため、子どもたちの学費がまかなえないことなど、裁判闘争以後、村々で課題となっている諸問題が紹介された。
 たしかに、村を歩いてもタパを叩くコンコンコンという音が聞こえてこない。学校に行く子どもたちが少ないのか、家々で遊んでいる子どもたちの数が意外と多い。若者も出稼ぎに行っているのか、村で目立つのはお年寄りの姿だ。
 美しい海岸、美味しいタロイモやフルーツ、輝く子どもたちの瞳、原生林から流れ出る豊かな川の流れ等々、10年前と変わらぬものには改めて心を強く動かされる。しかし、目の前に見える村の姿の微妙な変化の裏には、村をとりまく情勢の厳しさがほのかに感じられた。
 日本では考えられぬほど、村々の自立性は確保され、健全な社会を営むコミュニティの力は強く息づいている。子どもたちの教育やしつけ、弱い立場の者を思いやる精神や気遣い、村人の伝統や文化を継承する取り組みの数々など、私たち自身が自分たちの社会で失ってしまったものの多くを、彼らは連綿と受け継いでいる。日本の大学生諸君も美しい景色や素朴な村人との交流を通じて、多くのものを学んだようだ。
 今回の訪問を通じて、「森を守る会」として継続してウイアク村を訪れることの重要性を痛感した。それは、エコツアーそのものがもたらす経済的な効果やタパの販売に協力することの重要性でもあるが、それ以上に原生林を守る村人たちとの心の交流を継続する意義が大いにあるからだ。
 今回、彼らとの話し合いで「エコツアーを定例化する」ことが共通の課題として確認された。決して簡単に行ける村々ではなく、誰でも安全に行ってこられるような場所でもないが、「森を守る会」としても前向きにエコツアーの推進を検討していきたい。今後、MAICADの新しいチェアマンが決まった後、来年度のエコツアーやタパの販売に関する覚え書きを交わす予定となっている。
 10年前、民泊でお世話になった家の若者と再会した。彼は村から出て町で働くことを夢見ていた。村の風習を冷ややかな目で見ていた当時の彼も30歳になっていた。村で家庭をもった彼は、私たちが村を出る前夜の宴で伝統的な踊りを披露してくれた。今、彼は村の伝統的な風俗を次世代に伝えるための活動を中心的に行っているという。同じ家の少女で料理を作ってくれた女性も母親となっていた。近くに暮らしていると聞いていたものの、子育てや家事に忙しいとみえてなかなか会えなかったが、帰る日の朝、海岸べりに私を見送りに来てくれた。細くやつれた表情ではあったが、少女の頃の目の輝きが鮮やかに甦った。
 5日間のエコツアーだったが、村人から大きな宿題を授かり、また言葉にならぬ数々の思いを感じ、光り輝く海辺の村を後にした。

大学生の見た、感じたウイアク村(4人の参加者のうち、紙面の都合でお二人の報告書を掲載します)

宮下 智恵さん
 今に体験したことを探すのが難しいほど、すべてが新鮮で今までみたことがないものでした。東京にはない人のやさしさがものすごく暖かかったです。ひとつの村というよりも、ひとつの家族のようでした。そのなかで10日間という短い間だったけれど、一緒に過ごせたことがとても素敵な財産になりました。
 最初、村での生活は、正直不安と期待が半々でした。虫や食べ物、自分の体力など、先が見えませんでした。でも、ほとんど問題はなく、楽しくのんびりとすごせました。私のホームステイ先では、常に案内したり、助けてくれる特定の人はいなかったのですが、逆にそのほうがたくさんの人と話せてよかったです。たくさんの同世代の女の子、男の子と友達になり、恋愛の話をしたり、学校の話をしたり、国籍を飛び越えた友情が生まれた気がします。その中で、森林伐採やパプアニューギニアと日本の歴史についても話をしました。楽しい話だけでなく、抱えている問題やこれから先のことを話せたので、お互いの気持ちを理解しあえたと思います。
 村で生活をして、森の大切さを再認識しました。森はすべての源でもあり、かけがえのない財団なのだと。それは、毎回、食事のタロイモや魚でも感じることができたし、実際のFOREST、ガーデンでもその偉大さを感じました。誰も彼らから森を奪う権利はないし、どんなに高額な金額でも代えられるものでない、無限の価値を持っているに違いありません。そのことを本や、人からの話だけでなく、自分自身の目で学べたことは今までのどんな学校、塾で学んだ勉強よりも大切な自分の一部になりました。
 このことは出来るだけ多くの人に伝えたいです。そのことで一人でも多くの人に知ってもらい、森の大切さを知ってもらえたら素晴らしいことだと思います。

平柳 駿さん
 初めに、今回エコツアーを企画、運営してくれたすべての人々に心から感謝いたします。
今回のエコツアーで体験したことは、私の人生のなかで一番の冒険でした。毎日、毎日驚かない日は一日たりともなかったです。森と、海と、川と、「トヤブ」と共に生きる人々、みな個性的であり、暖かくとても優しかったです。
 川の中のガーデンで聞いたマイシンの歌や満天の星空、ものすごく明るい月の光、そして、手つかずの本物の原生林や森、珊瑚の小島がいくつもある海、家の前でエイが釣れてしまうほど生態系の豊かな川、どれも一生忘れられない最高の思い出です。なかでも一番印象に残っていることは、あの滅茶苦茶に広い白い砂浜に、人工的なゴミがひとつも落ちていなかったことです。今まで私は、ゴミの落ちていない海なんて見たことがありませんでした。日本の海とは対照的でとても印象に残っています。
 エコツアーを通して、私は、自然の大切さ、森とともに生きること、人間の人間らしい生き方、リゾート地と村の物価の違い、豊かさの本当の意味を考えることが出来ました。物が何でもあり、生活に何不自由のない暮らしができる日本と、自然の恩恵を受け、工夫と知恵を凝らし、トヤブと共生をするウイアク村。どちらの方が豊かと言うと、ウイアク村の方が豊かな生活なのではないかと思いました。そして、本当の豊かさを少し知れたような気がします。これからもう一度英語を勉強しなおして、もう一度ウイアク村に行きたいと思います。人間として少し大きくなれた気がします。多大な迷惑、世話をおかけしました。本当にありがとうございました。