ニューズレター「太平洋の森から」第23号(2005年6月発行)から

1 「パプアニューギニア、原生林を守る村人のメッセージ」集会報告

 2004年11月〜12月、「森を守る会」では、パプアニューギニア、ニューブリテン島のクランプン村より、若きリーダーのパトリック・カウプン氏を招き、各地で「原生林を守る村人のメッセージ」と題した集会を開催しました。
 以下、パトリック氏のメッセージの抜粋をご紹介いたします。
「私たち、熱帯雨林の原生林にすむ人間と森は、古来から、相互に助け合って平和と調和のうちに生きてきました。原生林は、人間に無償の恩恵を与え続け、人間は、原生林とその生きとし生けるものをこよなく愛しいたわり、守り大切にしつづけてきたのです。
 自然の森で暮らすということは、あるがままの直感に依存するということです。人々は、生きる知恵や技術を、森の暮らしで独自に身につけることができます。森の中で生きることは、繊細・敏感に生きることにもつながります。
 たとえば、2000年に私たちの島のブラヴァ山が爆発する前に、動物たちが一定の方向に逃げ出しました。人間たちは災害が起こるに違いないと思い、動物たちと同じ方向に逃げました。逃げ終わったところで火山の大爆発があったのです。人々は、動物たちが私たちに危険を早めに教えてくれたことを知ったのでした。
 物質的な豊かさだけではなく、私たちには心の満足が必要です。生きていくうえで最も重要なことは、何が正しいか、正しくないかを判断することです。
 森の人々は純粋です。笑顔を見ると、お互いに愛情や尊敬、喜びを実感します。私は、森の独特な文化を享受できることに誇りを持っています。ある意味で、世界で最も恵まれた人々かも知れません。
 クランプン村のひとたちは、「商業伐採」が他の村々に何をもたらしたのかを見てきました。生命の森が完全に破壊されてしまうのです。水が奪われ、肥沃な大地や海が汚染され、コミュニティの文化も破壊されてきました。伝統の貴重な価値と文化が破壊され、伐採が入った村々では、お祭りや畑作や狩猟や漁労が衰退してしまうのです。クランプン村の人々は、他の村々での破壊や損失を目の当たりにして、いかに商業伐採が森を壊し、暮らしを狂わすかを痛感してきました。そして、森を守るための行動を起こしました。
 ニューブリテン島の南部では、マレーシアの企業が伐採を始めており、北部では日本とマレーシアが伐採を進めており、私たちは早く行動を起こさなければなりませんでした。伐採企業の誘惑がますます強大になるなか、私たちは共同体全員で一致し、急遽ポートモレスビーの環境保全省を訪れ、クランプン村の原生林を保全地域として認可して欲しいと訴えました。2003年10月、環境保全省は5200ha(およそ世田谷区の広さ)の森林保護区域を認定する許可を出しました。
 私たちは「熱帯雨林は、私たちのアイデンティティであり、オーナーシップ(所有権)を大切にしなければならない」と警鐘を鳴らしました。
 また、私たちは、オルタナティブな開発という視点を持っています。収入を得るために農業を行い、コーヒー、バニラ、ピーナッツなどを栽培しています。エコ・ツーリズムの運営にも努めています。石けんづくりは、オルタトレードによる収入の道のひとつです。養鶏やトリバネアゲハという蝶を育てることも行っています。
 クランプン村は、広大な原生林の所有者として自給自足を目指しています。その森の暮らしがあってこそ、オルタナティブな収入もささやかながら可能になります。学費や病院代を得ることができます。森を失えばそうしたこともできません。私たちは、伝統文化の継承、自然や生き方を守っていくために、伝統的な祭も行っています。
 今日のようなお話をする機会をいただいて、クランプン村を代表してお伝えしたいことがあります。
 日本の企業であるコスモ石油は、事実と反する広告を行いました。クランプン村の本当の姿は何なのか、クランプン村の暮らしと原生林はどのようなものなのか、コスモ石油は焼畑が原生林の破壊の大きな要因であるとして、稲作を推進していると言っていますが、私たちの伝統的な焼畑は原生林を破壊する要因ではありません。
 パプアニューギニアの森の70%は商業伐採で失われています。パプアの人々がタロイモやヤムイモをつくる伝統的な焼畑のための伐採は、10%以下です。コスモ石油は、クランプン村が自然災害と食糧事情の悪化と、貧困に苦しんでいるような前提で広告を作っていますが、クランプン村は自然災害にも、食糧事情の悪化にも、貧困にも陥っていません。自然災害や食糧事情の悪化、貧困化に苦しんでいるのは、商業伐採で原生林を奪われた村々なのです。
 コスモ石油は、「『生きるために森を焼く人たちに、森を守ろうという声は届かない』・・」という広告で、広大な焼畑の写真を使用し、あたかもパプアニューギニアの焼畑であるかのような誤解を生み出したが、その写真はアマゾンとアメリカの写真であったのです。 また、米づくりは、家族によっては、家計支出の一部を押さえることに役だった面もあったかも知れないが、貧困を救うということにはなりません。なぜなら、私たちは貧困なんていう状態に陥ったことがないのです。
 私たちクランプン村は、コスモ石油が私たちの森の問題に口出しするずっと以前から、生命がけで森を守ってきたのです。コスモ石油が本当に森を守りたいと言うのならば、原生林を守っているクランプン村の人々とともに、商業伐採に反対して立ち上がるべきだと思います。
 私たちは、二度、日本に侵略されました。最初は第二次大戦で日本軍が来たことです。私たちの隣村ムー村で、日本兵は人々に薬を与えようとしたそうですが、実際には集団虐殺を行いました。第二の侵略は、日本の企業による森林伐採です。
 日本の皆さんにお願いしたいのは、私たちの生命そのものである森林を伐採から守るために力を貸してほしい、ということです。私たち、パプアニューギニアの原生林を伐り続けている商業伐採に反対してください。私たちの原生林からの丸太を日本で合板にして建材に使用することも止めてください。私は、森を守るためにあらゆる努力を惜しみません。未来の世代とすべての生命に、貴重な原生林を手渡すために、どうぞ私たちと共に立ち上がり、原生林を守る活動に協力してください。」

【11月27日の東京集会での質疑応答から】
Q 東京の環境について、どう思われますか?
A 私は今回、初めて日本を訪れました。日本の人たちは伝統的なものを大切にしていると感じます。ただ、伝統文化が若い世代に継承されているか、懸念されます。東京では、子どもの姿が少ないことになりました。私の村では、午後になると子どもたちの賑やかな声があふれます。街の中で子どものいない国に、明日はどこにあるのだろうかと思いました。
Q 地域と政府の政治的な関係はどうなっていますか?
A パプアニューギニアでは、土地の97%がそこに住んでいる村人の所有です。残りの3%が政府やその他の所有となっています。だから、伐採を目的とする企業は地元の人の協力を得ないと出来ません。ここで問題、賄賂が生まれるのです。
Q 米などの自給の割合はどのくらいでしょうか?
A 食糧は自給しており、米は外からの購入物です。村で自給する食べ物は豊かです。商店から買うものは、不足しているものを補うだけです。米などは、補充用として買っています。それ以外は自給しています。
【京都集会でのアンケートから】
・今日のお話で得たことは、「識別の力」の大切さです。知識を得て、使う(判断する)力の重要性が、森を守ることにつながるのではないかと思います。
・私はカメルーンの熱帯雨林で焼畑に関する調査をしています。コスモ石油のコマーシャルは、カメルーンの熱帯雨林研究者の間でも、話題になりました。それに、真っ向から発言されたと聞き、感銘を受けました。
・白熱した議論、質疑応答があってよかった。森林伐採から見えてくる、現地の声と私たちの生活との対比、つながりが豊かであって欲しいと切に思う。日本の森は、パプアニューギニアのパトリックさんには、どう見えるのでしょうか?

 初めての東京集会で、パトリック氏は日本に来てから段ボールなどで製作した盾や槍をつかって、伝統的な踊りを披露してくださいました。仲間と一緒にラバウルで録音したカセットテープも持参し、近代的な会議室が一瞬、パプアの原生林の雰囲気となりました。 その後、菊名、藤沢、浜松、名古屋とパトリック氏の講演はつづき、大東文化大学と京都大学でも学生たちと熱い議論が交わされました。精力的に熱く語ってくれたパトリック氏と、各地の集会でご協力くださった皆様に深く感謝申し上げます。ありがとうございました。

2 クランプン村調査報告(2003年8月〜9月) 概要   清水 靖子

パプアニューギニア、ニューブリテン島のクランプン村は、村の奥地に5,000ヘクタールを超える広大で深い原生林を保有してきました。クランプン村のコムニティは、その森の商業伐採を許したことはありませんでした。
 原生林の豊かなクランプン村は、貧困や食糧事情の悪化に見舞われたこともなく、商業伐採を許したこともないので、そこから生じる自然災害もありませんでした。人々は原生林を守ることに熱心でした。これらの事実は2001年から放映を始めたコスモ石油の「熱帯雨林保護プロジェクト」の広告において、正しく伝えられていませんでした。
 2003年、私が訪問した際、クランプン村で行われているライス・ファーミング(米作り)は、コムニティとして組織的に行っているものではありませんでした。当時、村人は任意で、個人的に興味をもった人々が米作りを始めていたり、あるいは始めたものの問題があって止めたり、様子を見たりなどしている状態でした。

当時、ライス・ファーミングをしていた人々や家族から聞いた話は以下のとおりです。

A)「いったんライス・ファーミングをやってみたが、伝統のイモ類と違って、稲穂を鳥が食べてしまうので、やる気を失って止めた」という家族が多々ありました。特に内陸でのライス・ファーミングに稲穂被害が多かったのです。

B)伝統のタロイモ、ヤムイモ、サツマイモづくりとの関連では、同じ焼畑の中を、区分けして、その一部にライス・ファーミングを試みてみたという人々が多いようでした。

C)一方、ライス・ファーミングを熱心に行なっているのは、子どもの教育費用など必要な収入を得るためというのが主な目的となっていました。こうした家族によるライス・ファーミングでは、新たに原生林を伐り、焼畑を増加させているという事実が見られました。クランプン以外の地域ではさらにその傾向が強いとのことでした。

なかには、ライス・ファーミングのために年に二度も原生林を新たに焼き払ったと語った家族もありました。

D)収穫した米について、自分たちで食べないで出来るだけ収入を増やすために売ってしまうという家族、少し食べる家族、週末用に食べるという家族などがありました。売るのは村々の売店などでした。

E)ライス・ファーミングをしていない人々。

理由は「原生林や海からの食べ物は充分あり、伝統的なタロイモやヤムイモで充分である。のんびり暮らしたい。鳥に食べられては困るのでやらない。忙しくてその暇がない。」などでした。

F) ライス・ファーミングをしてみようかと思っている人は、「収入を得ている人を見て、やってみようか」「でも鳥に食べられたら困る」というジレンマの間で、ゆれていました。

当時クランプン村で聞き取りしたかぎりでは、ライス・ファーミングはコスモ石油が宣伝するように「熱帯雨林を破壊する焼畑に代えて、稲作農業・定置農業を行う」という構図とは異なり、は現金収入を得るために行われていました。したがって、ライス・ファーミングに熱心になればなるほど、原生林の焼畑が増加する危険性は、すでに含有されていたわけです。

また、コスモ石油が熱帯雨林保護プロジェクト、および焼畑問題の広告内容については、村人たちは知らされてはいませんでした。本来クランプン村の人々が行う焼畑shifting cultivationは、伝統的には5年か6年周期で元の畑(現地語でガーデンと言う)に戻っていき、原生林には手をつけない方法であり、タロイモ、ヤムイモなどを作っています。
 
村の畑は、集落の後ろの断崖の上にあり狭いのですが、その奥地にある広大な原生林を、外国による商業伐採から生命がけで守ってきたクランプン村は、採集・狩猟とタロイモ、ヤムイモづくりで豊かな暮しを営みつづけてきました。
 ライス・ファーミングのため、新たに原生林に手をつけて伐って焼いた家族が各地で出始めていたことから、将来原生林の焼畑が逆に加速して行くのではないかとの危惧を抱かざるを得ません。
2003年の7月から12月の精米量は、ニューブリテン島のワイド湾地域全体として、2745kgでした。初めて試しに作ってみたという近隣のムー村、ミリム村、ダグル村などのコムニティのそれぞれ2家族か3家族が精米しているとのことでした。ライス・ファーミングを指導している日本のNGOの担当者によると、コスモ石油からは、ライス・ファーミング・プロジェクトのため、NGOに対して機械、技術指導、旅費、資財を送る輸送費、精米機の手当てなどが出されているとのことでした。
 
NGOは精米機をライス・ファーミングをしている村々の拠点に設置していました。そのひとつがクランプン村への精米機設置でした。クランプン村への精米機の設置に当たって、このNGOは精米量達成のノルマを年間5トンと決めていました。担当者によると、それ以下のごく少量の精米だったら手でやればいい、精米量がノルマに達しなかった場合は、精米機を撤去して他地域で活用したほうがいい、ということでした。
 ノルマを課して精米機を送ったことは、公表されていることではありません。CMの背景にこのような援助する側の意向が働いていたことに驚きました。働き者で知恵者のクランプン村の人々は、すでに収入源としても多様なオルタナティブな方法を巧みに組み合わせて展開していました。ココナツオイルからの石鹸づくり。Tシャツのプリントと販売。ココナツ林の木陰でココアの栽培・ヴァニラ豆栽培・コプラ(ココナツの実を乾燥させる)などの組み合わせを行い、ラバウルで売る。野菜・タロイモ・ヤムイモなどを村の内外のマーケットで売る。養鶏。ゲストハウスを建ててコムニティで運営する。近隣の人々やゲストが使用するときの食事・宿泊料・使用料で皆が収入を分かち合えるシステムを作っていたこと。伝統の踊り・寸劇で青年たちが出前の披露をして収入を得る(同時に原生林を守るネットワークを広げる機会にもなる)などなど。クランプンにとって、ライス・ファーミングは生きるために不可欠なものとは言えません。元来、自立的で安定的な暮らしがなりたっており、必要な現金収入のためにオルタナティブな取り組みも行っています。彼らの取り組みが評価され、村人が守っている原生林は「自然保護地域」、商業伐採を許さない地域としてパプアニューギニア政府から2003年10月に正式な承認を得ることもできました。コスモ石油の広告にある「生きるために森を焼く人たちに、森を守ろう、という言葉は届かない」というメッセージは、クランプン村には該当しません。そのメッセージと共にコスモ石油が、クランプン村の人々の映像や写真を使用していることに疑問を抱きました。

3 ブライアン・ブラントンさんご紹介 清水 靖子

 ブライアン・ブラントンさんは、パプアニューギニア在住のイギリス生まれの法律家である。長年にわたって原生林を守る法律家たちの中心として、また多様なNGOと村人たちのネットワークのアドヴァイザーとなって活動してきた人である。  
私が、ブライアン・ブラントンさんとの出会うことになったきっかけは、私が初めてパプアニューギニアを訪れた1990年に、知人の法律家から、ひとつのレポートを見せてもらったことに始まる。そのレポートとは、「パプアニューギニアの原生林を守る唯一の方法は、パプアニューギニア政府による丸太の輸出禁止政策である」(1989年の世界銀行の円卓会議用。作成者:最高裁判事ブライアン・ブラントン)と言うものであった。
世界銀行はパプアニューギニアでも現地政府と共に、構造調整政策を推し進め、外貨獲得の金の卵であり、環境を破壊する原生林の伐採と丸太輸出政策を奨励してきた。そして1989年当時の世銀との円卓会議の準備を、パプアニューギニア政府はブライアン・ブラントンさん(以後ブライアンさんと記載)に依頼したのである。しかしブライアンさんは、世銀と政府の政策に抵抗して「丸太輸出禁止」を打ち出したのである。それはセンセーショナルなレポートであった。
そのレポートを読んで、私は胸を躍らせた。「パプアニューギニアにもこのような法律家がいる」、「可能ならばブライアンさんという人に会いたい」と思った。
しかし彼はすでに首都のポートモレスビーにはいなかった。
「ブライアンさんは、このレポートを書いたために左遷されてしまったのさ。遠いゴロカの地方裁判所にいるよ」と私の知人は言った。
「ブライアンさんからいろいろ学びたい!」。遅れてパプアニューギニアに到着したODA調査のための上智大学の村井吉敬教授と東大の宮内泰介さんと三人で、私たちはブライアンさん訪問も含めて、パプアニューギニア縦断旅行に入った。ニューアイルランド島、ニューブリテン島、本島のレイ、高地のゴロカ、カイナントゥなど。私たちは貴重なODA調査旅行をつづけた。(その記録は次の書物に記した。清水靖子著「日本が消したパプアニューギニアの森」明石書店。村井吉敬、宮内泰介、清水靖子他の共著「検証ニッポンのODA」コモンズ。)
私たちはゴロカに到着し、ついに彼に出会った。優しく知恵深いキャロルさんいうパプアニューギニア女性の伴侶と、二人の子供たちに囲まれて、ブライアンさんは幸せそうだった。その夜、私たちは時間を忘れて語りつづけた。彼は私たちに多くのことを教えてくれた。
ブライアンさんはその後、ゴロカで判事として死刑の宣告を迫られるケースに巻き込まれた。そのとき彼は決心した。「私は人に死刑の判決をくだすことはできない。判事を辞めよう」。   
以後、彼は原生林と人権を守る法律家になって今に至る。首都のポートモレスビーで、オフィスを開いた。原生林の村々から森を守るために「助けてほしい」という村人たちが列をなしてオフィスを訪れ始めた。村人と連帯して、伐採企業や政治家や有力者に抵抗して森を守る裁判に勝ち抜いて行った。村々を回るワークショップもつづけた。多忙な充実した日々がつづいた。
その頃、私はお二人の家に寝泊りし、まるで子どもか家族の一員のように、一緒に海辺の魚市場に買い物に行ったり、料理を作ったり、伐採問題その他を共に勉強させて頂いた。私はブライアンさんの考え方と資料からしっかり学びつづける幸せを得た。
妻のキャロルさんは、パプアニューギニア人の女性を弁護士に育てることに生命をかけた。女性たちを海外に送って勉学をさせ、弁護士として成長させた。戻ってきた女性弁護士たちを迎えて、さらにオフィスを増やした。
しかしキャロルさんはその途中で重病に冒され、次第に生命尽きて行った。最後の最後まで、骸骨のような体になりながらも、彼女はオフィスで女性たちの指導にあたっていた。その姿を私は忘れることはできない。日本に帰国した私を追うように、帰天の報が入ったのは、その一週間後のことであった。
残されたブライアンさんと女性弁護士たちは、キャロルさんの遺志を継いで、原生林と女性を守る活動を誓いあった。そして歴史に残る最大の裁判に勝った。その最大の勝利とは、政府・森林省・環境保全省・有力者が悪徳企業とつるんで、オロ州のマイシン語族の住民の広大な原生林を騙し取って伐採契約をしてしまった件に対して、住民が訴訟して勝ったことである。マイシンの村々は原生林からの悠久の美しいウイアク川に潤された秘境で、大人も、子どもも「私たちの森を守るのだ」と誓いあっている。
ブライアンさんは、現在パプアニューギニアとオーストラリアとイギリスの間を往復して、後輩の指導にあたりながら活動をつづけている。
なお、「パプアニューギニアとソロモン諸島の森を守る会」のニュースレターのための、ブライアンさん自身の書き下ろし原稿が、今後連続掲載されることになっています。皆様楽しみにしていてください。